●藤井青銅『「日本の伝統」の正体』 (新潮文庫、2017年、590円)
伊藤 修
電車の中でも笑ってしまい、やがて笑ってもいられなくなった。そんな本。
「これは日本古来のすばらしい伝統だ」と言われることは数多い。それは本当なのか、いつごろからのことなのかを追った本がこれ。もちろん歴史については諸説あるケースが多いが、それでも、古くからの伝統ではないことがほとんどなのだ。
たとえば夫婦同姓。そもそも江戸時代までは姓がない人が大部分だったから、同姓も別姓もへちまもない。明治になり、明治9(1876)年の太政官指令で「他家に嫁いだ婦女は婚前の氏」とされた。つまり当初は夫婦別姓だった!のである。のちに明治31(1898)年の民法で、家長を筆頭とする家制度で国民を管理するため、夫婦同姓が定められた。それから125年にすぎない(右派諸君、どうする?)。
神社では「二礼、二拍手、一礼」が古式というのも誤解。明治より前はバラバラで、神仏習合だから仏教式の合掌も多かった。明治になり国家神道を統治手段に使うことになって、明治8(1875)年、「一揖(ゆう)、二礼、二拍手、一揖」と定められた。「揖」は軽いお辞儀、礼は深い前屈である。現在の形はなんと昭和23(1948)年の「神社祭式行事作法」から。うーむ、知らなかった。それに、神主の所作は儒教礼の模倣、ご利益願いやおみくじは道教式を導入と中国式なのである(右翼諸君、どうする?)。
歴代天皇と元号もおもしろい。『緯書』という中国のトンデモ本を利用して神武天皇即位を無理やり推定し、つじつまを合わせたのが「皇紀」や「紀元節」で、このため初期の天皇の寿命は百数十歳が続出となってしまった。……
きりがないのでこのへんにしよう。
いずれにせよ決着をつけるのは事実である。「日本古来の伝統」の多くが怪しいことを知っておくのは実に大事だと思う。同時に、マスコミや政治をはじめ、こういう事実に触れずに(意図的に隠ぺい?)復古・保守の主張をし、けっこうみんな従っているのにはぞっとしないだろうか。まずは読んでみて下さい。
(2024年2月20日掲載)
中村ひろ子
ミニコミ紙に載ったこの本の書評を読んだ。核分裂で猛毒テルル発生? 化学毒? 初めて聞く元素記号になんだか分らない。しかしたいへんなことが書かれているらしいと思い、本屋に走った。
序章が「空母ロナルド・レーガンの悲劇」で始まり、ともだち作戦で被ばくした経緯とたくさんの乗組員の被害証言が載せられている。どの人も、血や金属を嘗めた感じがして、外気にさらされた皮膚に焼ける痛みを感じ、そのうち頭痛、倦怠感を覚え、失禁、血尿、下血が続いて、身体がぼろぼろになっていた。もちろん死んだ人もいる。
この乗組員たちの証言を読んだ山田國廣氏は、放射能以外の何かが発生し、おそったのだと確信した。環境学者の氏は、毒性化学物質テルルが原因と推定し、核分裂の際に発生するものかわからないまま、多くの被ばく者の実例・証言を集めてみた。つまり、「猛毒テルルの被害だ」と実証しているのが本書だった。
単体では存在しない毒物テルルの説明のあと、原子爆弾によるヒロシマ、ナガサキ、核実験のマーシャル諸島、セミパラチンスク、原発事故のスリーマイル島、チェルノブイリ、そしてフクシマの証言を並べている。読み進むのは辛いものがあるが、共通する何かが作用していると見えてくる。黒い雨の正体もこれだったのだ(日米合同調査団は、距離と被害が一致しないと切捨ててきた)。
急性原爆症は「爆心地から3キロ以内の脱毛、紫斑、口内炎」とものすごく狭く限定されてきたのだが、この本を読んで、私はこれまで見聞きしてきた被ばく証言が一気につながったと思った。
核分裂の際、テルルが発生していることは世間にはずーっと隠されてきたので、山田氏は「テルルの発見」としているが、隠されてきたことこそ問題だろう。核分裂で毒物テルルが発生し、それが被害をもたらすことは、アメリカのオークリッジ研究所のデータライブラリーにも、そしてなんと福島第1原子力発電所の元所長二見常夫氏の著書『原子力発電所の事故・トラブル 分析と教訓』(2012年刊)にも書かれているという。
核分裂でテルルが発生し、放射性テルルは減っていくものの、安定テルルは半減期が無限大でたまりつづけていくというではないか。「もう核分裂を起こさせてはならない」ということだ。岸田政権は、再稼働どころは新設も目論んでいる。許してはならない。
山田國廣著『核分裂 毒物テルルの発見』3600円+税 藤原書店
(2023年7月5日掲載)
●Jane
McAlevey, Abbey Lawler “Rules to Win by: Power and Participation in Union Negotiations”
3年前に出版されたJane McAleveyの “Collective Bargain: Unions, Organizing, and the Fight for Democracy”の続編ともいうべき著作である。著者はカリフォリニア大学バークレー校の労働センターのシニアフェローであり、長年に渡り労使交渉や労働組合結成の実践にも関わっている研究者兼活動家である。
3年前の前作では、いかに職場で一対一の信頼関係を築き多数派を形成し組合の組織強化とストライキが大事かを説くとともに、病院での看護師の組合結成に関わった経緯を紹介し、その中で組合員一人ひとりがコミットすることをカードに書く運動など、組合員全員参加の運動こそ組合の交渉力を獲得するすべであることを説いた。
今回作では、最初に、いかに米国の組合潰しコンサルタントや弁護士が暴力的で卑劣であるかが、自身の経験から語られる。著者の労働運動への思いが伝わってくる。
本書の目的はケーススタディによって、いかに労使交渉において、オープンで一般組合員の高い参加による大きな交渉チームが透明性の高い交渉を行うことで交渉力が強くなり勝つことができるかということを示すことにある。
取り上げられたケースは9つあり、看護師、教員、ホテル、新聞記者の組合で、公共部門3つと民間部門5つ、両者が重なるケース1つが扱われている。著者自身が交渉に関わったケースである。その上で、ポイントとなる事項を20点具体的に指摘している。
日本と米国では労働法性が大きく違い、必ずしも参考にはならない点もあるが、今後、労働運動の担い手を育てていくために参考になる点も多々あるのではないかと思う。筆者にはコメントする資格はないかもしれないが、ともすれば、我々はここの闘いに負けても、広がりゆく団結が大事と自らに言い聞かせてきた面があるように感じる。しかし、やはり最大限勝つ努力、しかも組合員の多くが参加し理解する闘いを精一杯やってこそ、だろう、と思う。米国も日本同様労働組合組織率が大きく低下した国であり、そこから反撃し始めている動きには学ぶものがあるのではないだろうか。
Oxford University Press (March21, 2023) 29.95ドル(Amazon) 312ページ
(2023年6月4日掲載)
東京大学出版会(2019年3月 4600円+税)
相馬良夫
2019年のマイナンバー制度における「情報連携」及び「マイナポータル」の本格運用等の開始以降、私の勤務している日本年金機構では、マイナンバーの活用は日常業務上不可欠なものになっている。「情報連携」とは、私のところでいえば、住民票や所得、雇用保険など、年金事務に必要となる他の行政機関の情報をネットでやりとりできる仕組みである。窓口で年金相談をしながらでも、ほぼ即時でアクセスできる。ただし、戸籍情報は結びついていない。
本書は、この「魔法のように便利」な国民番号制度成立の前史である。著者は、比較歴史分析という手法で、政治学や行政学の研究をしている。その知見を用いて、国家や行政に作用する諸力の働きを記述し、妥当な説明を与えている。「国民総背番号」という言葉をとってみると、社会運動論的には国家権力による支配と、それへの対抗の問題と単純化されがちである。ゆえに、本書のような社会学的観点の分析は弱いと見る向きもあるだろうが、著者の視野は包括的でダイナミックである。
著者の問題意識の端緒であり、本書の主要な論点のひとつに「プライバシー意識論の限界」がある。日本における国民番号制度導入は、「プライバシー保護」の観点から挫折を繰り返したという言説が一般に受容されている。これについて、「プライバシー保護という考え方は、1960年代に反合理化闘争の一環としてコンピュータの導入に反対していた労働組合によって政治的に使われ始め、その後も、1980年代に大蔵省と対立関係にあった自民党政治家、1990年代の政治改革で浮上した改革派政治家などによって戦略的に利用されてきた。統一個人コード、グリーンカード制度、そして住基ネットへと続いた日本政府の構想が国民番号に対する負の印象を作り上げたのは、様々な主体がプライバシー保護の論理を政治的に利用した結果なのである」とする。なぜなら、個人情報保護は遅れて1970年代から整備が意識はされだしたが、2000年代に住民票や戸籍の不正取得問題が浮上するまでは、本人確認制度の不在のままに交付されていた実態だったことを挙げる。
こうした政治論のうえに、20世紀後半の情報化の急速な進展に関する、技術論や産業論、さらには、戦後資本主義社会を特徴づける社会権の伸長、すなわち福祉国家論を絡めた議論を加えて、分析が展開されている。
また、「歴史的制度論(歴史的制度主義)」などにいう「経路依存性」の観点からした、日本と韓国の国民番号制度導入に関する歴史的差異の分析も興味深い。戸籍制度という住民管理が戦前に押し付けられ、戦後に崩壊した韓国では「住民登録番号」が早くから導入、拡充されたが、戸籍制度が温存された日本では、様々な番号制度がぶら下がるように分立し、かえって国民番号導入が遅れることになったという。これは、韓国出身の著者ならではの論点といえる。
さて、2002年に開始された住民基本台帳ネットワークシステムによって、すでに人々には住民票コードが付されていたが、これが、2013年にマイナンバー法(「マイナンバー」は通称で、「個人番号」が法律上の正式名称)が公布され、新しい「個人番号」にすり替わった。これは、2015年のマイナンバー通知で人々に知らしめられた。一方で、2013年に「政府共通プラットフォーム(政府情報システムのクラウド化)」の運用が開始され、政府内では、システム上、人々の情報を収集し、使いまわす仕組みは周到に整っている。
「社会保障・税番号制度」とも通称されるマイナンバー制度は、現場から見ると、急速で圧倒的な展開である。そして今、人々に、この制度への「忠誠」を突き付けるかのごとき健康保険証を巡る問題が騒がれてはいる。が、焦点がそこだけで十分なのかという気はする。1984年生まれのこの若き女性研究者は、2005年に交換留学生として初来日して、この研究業績を成した。こうした動向を、著者が今後さらにどう位置付けていくのか、期待を持って見守りたいと思う。
(2023年3月30日掲載)
かもがわ出版 (2021年3月29日) 2200円
熊谷 重勝
マルクスの文献を読み進むと、生産力と生産性ということばのちがいに引っ掛かりを覚えたものでした。この二つのことばは、おなじ意味のものだろうか、それとも異なるものだろうか、異なるとしたらどのように異なるのか、などといった疑問が残ったものでした。こうした疑問に果敢に取り組んだ本がここに紹介する文献です。
著者の聽濤氏は、生産力と生産性のちがいを、まずはマルクスの原典、そしてレーニンのロシア語訳の用語法から検討していきます。生産諸力Produktivkrafteと生産性Produktivitatの関係を明らかにするにあたりドイツ語の単数と複数のちがいから「ドイツ語も抽象度の高いものは単数形を使い、具体的に各種のものを表す場合は複数形になる」と展開します。
マルクスは『経済学批判』「序言」で、有名な文言「社会の物質的生産諸力(materiellenProduktivkrafte)は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる」と書いています。ここでは資本主義社会の生産力の発展は、いずれ生産関係と衝突するという文脈のもとで読み取ることができるでしょう。
ところが『資本論』第1巻の第13章「生産物への機械設備の価値移転」では、「大工業は、巨大な自然力と自然科学とを生産過程に取入れることによって、労働の生産性(die
Produktivitat der Arbeit)を極度に高める…が、しかし、この高められた生産力(Produktivkraft)が、他面における労働支出の増加によって購われるのではない」とあって、ここでは生産力と生産性を区別していません。
そして第10章「相対的剰余価値の概念」では、「労働の生産力(Produktivkraft der
Arbeit)の発展による労働の節約は、資本主義的生産においては、決して労働日の短縮を目的としない」とあり、生産力の発展は、剰余価値の搾取強化を目的とするものとして位置づけています。
著者は、「『生産性』の向上は労働強化・搾取強化を意味するものとして否定的に捉える向きがかなりある。…それでも大きく纏めてみると次のことはいえる。@複数形と単数形とでは意味に違いがあること。A単数形の『生産力』と『生産性』とは同じ意味であること。B社会全体との関連でみると史的唯物論の基礎概念として『生産諸力』をとるのが『普通』である」とのべています。ともあれ本書の「あとがき」では「私は本書を出版することに逡巡してきた。これまでのマルクス主義の常識に反することを書いたからである」と執筆の苦心を述べています。
自民党政府や経団連さらにマスコミは、いまだに生産性の問題を大きく取り上げて、生産性向上の必要性を喧伝しています。そこに潜む資本の狙いを私たちは的確に読み取るためにもマルクスの概念を明確にしなければなりません。そんななかで著者は、理論的、実践的に重要な概念の関係性を果敢にわかりやすく議論を展開しています。先達のさまざまな意見についてもていねいに読み解き明解に議論する姿勢からは、結論の賛否を越えて、みずから考えることの大切さを想い起こさせる良書といえます。なお意見を異にする人たちとの論争のようすは、さらに『「論争」地球限界時代とマルクスの「生産力」概念』(かもがわ出版、2022年)として出版されました。
(2023年1月30日掲載)
日本の女性学の「生みの親」であり、フェミニズムの思想を深化させたと評価される著者は、昨年8月に亡くなった。その直前まで日本のフェミニズムの歴史をまとめようとして叶わず、残された遺稿を元に刊行されたのが、本書である。
本書の扉の編者による紹介にはこうある。「(井上輝子は)穏やかな人格円満な学者として定評があるが、若き日の情熱がほとばしる瞬間がある。日本婦人問題懇話会と山川菊栄記念会を語る時だ。学びの場でありシェルターでもあったという懇話会、山川菊栄、田中寿美子への思いは深く熱く、それを若い人に伝えようとする意欲と気迫に驚かされることがしばしばだった」。
たしかに、文章のタッチは柔らかく、そして信念の強さを感じさせる内容である。
日本におけるフェミニストとして2人を挙げ、その人と思想が詳しく語られている。「不屈のフェミニスト」山川菊栄と「20世紀を駆け抜けたフェミニスト」田中寿美子である。言うまでもなく、田中寿美子は婦人会議(現・i女性会議)の初代議長の一人である。
直接、本書を読んでほしいが、私の率直な感想としては、私たちは社会の一部しか見ていなかったのではないかという、反省の気持ちがいっそう強くなった。本書に刺激されて上野千鶴子『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平―』(岩波現代文庫、2009)も読んでみた。少なくとも、私たちはマルクス主義フェミニズムの線まで前進する必要がありそうである。社会主義婦人論に始まった山川菊栄も、その人と思想は、そうした境地にあったのではないかと思う。
まるがめ医療センター・ 業務推進役 加藤繁秋
私が鵜沢弘文を知ったのは2000年初めに「新自由主義」批判を内橋勝人と一緒に雑誌「世界」に発表されたものを読んだのが始まりです。それまでは「向坂逸郎」しか知らなかった私ですが、彼等の「新自由主義批判」は適格で心に染みるもので、とても新鮮でした。
学習会の資料にも使い、仲間と議論するときも彼等の論文を参考にしました。当時は新自由主義批判は「ケインズ経済学者」も批判していました。また、新自由主義の推奨者「ミルトン・フリードマン」についても調べてみました。彼はシカゴ大学教授でした。彼は、1964年、暗殺された故ケネデイ大統領の後を継いだ、リンドン・ジョンソンに挑戦したバリー・ゴールドウォーターの経済顧問を引き受けるなど政治へのかかわりが深かった人です。また、次の大統領選挙でも、共和党候補リチャード・ニクソンのアドバイザーを務めています。そして、レーガン大統領のときにフリードマンの経済思想が現実の政策に反映されることになったのです。彼の論敵が鵜沢弘文だったのです。
このような関係から「鵜沢弘文」の論文を漁っているうちに、「社会的共通資本」に行き当たりました。「社会的共通資本」とは、生活・労働をしていく上で誰もが必要としている水、電気、交通などを「共有」にして、その運営をそれらの専門家によって行っていくというようなものです。他のサービス部門は市場経済に任すというものです。私は、当面の目指す方向はこれだと思いました。社会主義社会を平和的手段で成し遂げようと努力をしてきて、今日の状況を見たときに一挙に社会主義社会を目指すことは難しいと考えたからです。
鵜沢弘文は、マルクスもレーニンの著作も読んでいます。しかし、彼はシカゴ大学でフリードマンと論争しているうちに、それだけでは太刀打ちできないと考え「社会的共通資本」にたどり着いたのです。「資本主義と闘った男」は、佐々木実氏が書いた「鵜沢弘文」の自伝です。シカゴ大学でフリードマンとの論争、米国での「赤狩り」にであったこと、また、新古典派経済理論との論争、世界の先輩学者たちとの論争など理論的にも、鵜沢の人間を知る上でも必読の書だと思います。
@金子勝・大沢真理・山口二郎・遠藤誠治・本田由紀・猿田佐世『日本のオルタナティブ』(岩波書店、2020年、1700円)
Aデービッド・アトキンソン『日本人の勝算』(東洋経済新報社、2019年、1500円)
伊藤 修
日本の現在は、経済、政治、社会意識のいずれも「劣化」「衰微」というべき状態であり、ひじょうにまずい。何が問題なのか。そしてどうすべきか。この喫緊の課題を考える手助けとして、最近の本から上の2冊を強く薦める。
@は、経済(金子)、税・社会保障(大沢)、社会(本田)、外交・安全保障(遠藤)、沖縄(猿田)、政治(山口)と、現代日本の主要な問題である6分野をとりあげて、問題のありどころを分析し、対策を提言している。意見が違う点ももちろんあるが、だいたい納得、賛同できる。猿田の章は沖縄に押し付けられている問題への入門になり、大沢の章の(主に女性の)就業を抑制している理不尽な制度の分析など、勉強になる。テレビ局の認可を総務大臣から第三者委員会に移すべしとの提言などは、マスコミの翼賛化をみると、なるほどと思う。
多くの方に読んでほしい。さらに、できれば本書を材料に討論の場をつくってもらえるとよい。一部意見が違おうが(それは当たり前のことである)、日本を救うための議論の素材として本書は好適だと思う。
Aは、在日30年のイギリス人エコノミストが、日本経済が蟻地獄から抜け出すカギは賃上げ、とりわけ最低賃金の引き上げにある、とした研究である。著者は、世界の研究を調べた上で、先進国経済には、「High
road capitalism」(高次元の資本主義)と「Low road capitalism」(低次元の資本主義)とも呼ぶべき2つのあり方がある、との説を採用する。前者は北中欧が典型で、高賃金と高度な労働者、高い生産性を競争力の源とする。これに対して後者は、とにかく労働者を安くこき使うことに頼って勝負しようとする型である。日本は、人口がどんどん増えた高度成長期までは「低次元」でもよかったが、世界一の人口減少に陥った今でもまだ、世界に冠たる無能な経営者が、安さで勝負の一つ覚えを続けようとしている。その結果、すぐれた労働力を活かせず、生産性は低く、世界での地位を落としている。イギリスの先例のように最低賃金を上げ、賃金全体を押し上げて、「高次元」タイプのやり方に企業を追い込むしかない、というのが著者の処方箋である。
以上の考えに私はまったく賛成である(一点だけ加えたいのは、賃上げに労働運動が貢献すべきという点だ)。日本人はアメリカ一国だけ見てマネせずにもっと世界各国を見よ、という忠告にもまったく賛同する。
なおAと同じく賃上げが肝要とする本に、山田久『賃上げ立国論』(日本経済新聞社、2020年、1800円)もある。別の詳しい分析も付いているので、あわせて読まれるとよい。(2020.4.9掲載)
昨年、日本の著名な労働経済学者である小池和男氏の訃報が新聞に掲載された。その著書『仕事の経済学』(東洋経済新報社、初版1991年〜第3版2005年)は氏の労働調査をもとにまとめられた教科書である。ここでは、氏の研究を振り返りながら、この『仕事の経済学』を紹介する。
小池和男氏は、東京大学の故氏原正治郎氏の研究に対する批判を出発点としながら、熟練形成の国際比較を進め、日本の熟練の特質を明らかにしようとした。氏原氏は、京浜工業地帯で行われた労働調査に基づく論文「大工場労働者の性格」(1953年)の中で、日本企業は不熟練労働者を採用した後、企業内の訓練により熟練労働者を育成していくことに注目し、これを日本的な熟練形成と把握した。
この氏原氏の見解に対して小池氏は疑問を呈し、米国等の労働調査により、欧米にも企業内の熟練形成が見られることを明らかにした。小池氏は『仕事の経済学』初版の中で氏原氏の見解を「日本的熟練」論と規定して批判している。それでは小池氏は、日本の労働者の熟練をどのようなものとして考えているのであろうか。
小池氏によれば、日本の労働者の技能は「知的熟練」であるという。知的熟練とは、「問題と変化をこなすノウハウ」である。それは「問題への対処と変化への対応」ができる技能であり、具体的には問題の原因推理や不良の原因の手直しができ、生産方法への変化等にも対処できる技能を意味している(第2版、pp.12-16)。問題処理には機械の構造や生産のしくみの知識が求められるため、この技能を「知的」熟練と氏は呼んでいる。
氏はこの知的熟練のために、日本のブルーカラーの賃金は年功的なカーブになると見ている。しかしこの見解に対しては、若干の疑問を抱かざるをえない。ドイツのマイスターは上記のような知的熟練を有していると推測されるが、ドイツの賃金は日本とは異なり、職務給となっているからである。
このような疑問があるとはいえ、『仕事の経済学』は、精力的な調査と、そこから一般的な命題を抽出しようとする氏の研究姿勢から生まれた学術書である。それはマルクス経済学に立脚する書物ではないが、終身雇用や年功賃金に関わる問題提起も展開されており、その意味でも興味深い。また、氏が高齢者の雇用の継続に寄与する主張をしていたことは記憶しておくべきことである。日本の高齢労働者が蓄積した熟練の重要性を指摘している点でも、同著は傾聴に値する。(2020年3月15日掲載)
J・G・ホワイト『バランスシートで読みとく世界経済史』(日経BP社、2014年)
どちらも世界史の話を簿記の発展史からわかりやすく解いた本です。
だいぶ前のことになりますが「複式簿記は資本主義的企業の概念を作り出した」という見解が経済学者から発せられたことがあります。『近世資本主義』(1921年)という本の中のヴェルナー・ゾンバルトのことばです。
そんな捉え方は逆だろうという意見が唯物史観を学んだ人からは出てきそうです。でも古いさまざまの資料を見つけ出して帳簿の歩みを調べてみると複式簿記の「偉大さ」が見えて、どうも資本主義の発展に及ぼした簿記の影響力に感動せざるをえなくなるようです。
そんな複式簿記の偉大さについてはドイツの文豪ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のなかで語らせています。これから旅に出かける主人公に向って友人が「複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね」と言わせています。
さてJ・ソール『帳簿の世界史』は、世界地図や当時の元帳、風俗画を多く掲載して、帳簿の世界一周となっています。簿記の起源を古代ローマの時代まで遡るかは意見が分かれるところですが、中世イタリアの商人活動、フランス革命期の国家財政、産業革命期イギリスの鉄道会計、大恐慌期アメリカの会計事務所と監査など、帳簿の歩みを興味深く辿っています。世界史という背景のもとで帳簿の歩みをみることは歴史や会計の専門家でなくても楽しいものです。
またJ・G・ホワイトは『バランスシートで読みとく世界経済史』のなかで「複式簿記の影響力の大きさに最初に気づいたのは、あまり知られていないが、19世紀のイギリスの簿記に特別な関心を寄せていたマルクスだった。…会計は生産工程、とくに付加価値が生み出される動きを可視化するためのものだった」と明言しています。
最近の社会のようすを短期でみたら未来への展望が見えにくいかもしれませんが、世界史という大きなスパンでみたら、この社会もいずれは終焉を迎えるんだという進化論的楽観に辿りつきそうです。 (2019/12/27)
杉本龍紀
ハンガリーのヘゲデューシュ・アントラーシュが1976年に出版した論文集(邦訳は1980年)である。
ヘゲデューシュは、第2次大戦期の共産主義運動から、ハンガリー勤労者党中央委員を経て、1956年のハンガリー動乱(事件)勃発時に首相を務め、地位を追われた。その後、社会学者として研究の世界に転じ、中央統計局副長官や科学アカデミー附属社会学研究所長などにも就いたが、官僚制に関わる批判的論文により、73年に社会主義労働者党から除名されたとのこと。収録された論考は、東欧諸国では先駆的だった68年からの「新経済メカニズム」導入(「市場社会主義」の実験とされた)を前後する時期のものである。
ポイントは2つ。第1に、社会主義において国有であれ協同組合所有であれ、集権的国家行政システムであれ自主管理であれ、企業の内部には、一方では、専門知識を有し職業的に統治と管理を担う専門統治集団が専門化・ヒエラルヒー化・規格化を特徴とし権力的決定権限を有する専門統治機構を形成し、他方には、この権力構造に加われず権力行使の対象となる勤労者、という二分化が必然的に発生し、専門統治集団が官僚制を形成するという理解である(「官僚制」と「官僚主義」は明確に区分される)。
社会主義における「官僚制」は、「社会発展の現段階では」「これまでの経験では」、「歴史の必然性」であるとする。この理解は、旧ユーゴスラビアでの「官僚主義的中央集権主義」を廃絶し社会統治と専門統治に伴う権力を「勤労者の共同体」に移譲することを目的としていた社会的自主管理の経験にも共通する。自主管理機関に十分な専門知識などがないままに専門統治機構が不可避的に形成されたとされる。
とはいえ、この官僚制は「最も厳密な意味」では、社会の発展が分業などの一定段階において不可避的に生み出した一歴史現象にすぎず、“いずれ”、勤労者の社会から分離した統治機構を不要とする発展段階がくるはずである、とも述べる。
第2に、専門統治機構は社会的分業において独自の位置を占め、社会の普遍的利害と目的に一致しない局部的利害と目的をもち、自己の自立性、独占的地位すら求めうるもので、「最適化基準」には適合するが「人間化基準」と矛盾する存在であるとの主張である。
そこで、専門統治機構に対し、新たに設置資する企業監督委員会による社会的統制を進めて、勤労者が行動する社会集団に専門統治集団を従属させるなどの、専門統治権力に対する社会的支配を打ち出している(有効性や現実性は不明だが)。
社会主義体制の崩壊に伴って、市場社会主義的な議論とともに協同社会的な社会構想が打ち出されてきたが、その社会構想において「企業」的な経済組織への現実的な関心が薄い気がする。40年以上前の書物だが、社会主義社会における階層分化の根拠とともに、企業における現実的な諸関係に目を向けさせるものでもあった。
(2019.10.28掲載)