to top page 
 
■本の紹介・感想
 
会員が順に執筆します。本の選択は、執筆者に一任しています。800字〜1000字のネット上で一気に読める字数を基準にしますが、必ずしもこだわりません。
 
 
本の紹介
 

●藤井青銅『「日本の伝統」の正体』 (新潮文庫、2017年、590円)

                                 伊藤 修

 

電車の中でも笑ってしまい、やがて笑ってもいられなくなった。そんな本。

 「これは日本古来のすばらしい伝統だ」と言われることは数多い。それは本当なのか、いつごろからのことなのかを追った本がこれ。もちろん歴史については諸説あるケースが多いが、それでも、古くからの伝統ではないことがほとんどなのだ。

 

 たとえば夫婦同姓。そもそも江戸時代までは姓がない人が大部分だったから、同姓も別姓もへちまもない。明治になり、明治91876)年の太政官指令で「他家に嫁いだ婦女は婚前の氏」とされた。つまり当初は夫婦別姓だった!のである。のちに明治311898)年の民法で、家長を筆頭とする家制度で国民を管理するため、夫婦同姓が定められた。それから125年にすぎない(右派諸君、どうする?)。

 

 神社では「二礼、二拍手、一礼」が古式というのも誤解。明治より前はバラバラで、神仏習合だから仏教式の合掌も多かった。明治になり国家神道を統治手段に使うことになって、明治81875)年、「一揖(ゆう)、二礼、二拍手、一揖」と定められた。「揖」は軽いお辞儀、礼は深い前屈である。現在の形はなんと昭和231948)年の「神社祭式行事作法」から。うーむ、知らなかった。それに、神主の所作は儒教礼の模倣、ご利益願いやおみくじは道教式を導入と中国式なのである(右翼諸君、どうする?)。

 

 歴代天皇と元号もおもしろい。『緯書』という中国のトンデモ本を利用して神武天皇即位を無理やり推定し、つじつまを合わせたのが「皇紀」や「紀元節」で、このため初期の天皇の寿命は百数十歳が続出となってしまった。……

 きりがないのでこのへんにしよう。

 

いずれにせよ決着をつけるのは事実である。「日本古来の伝統」の多くが怪しいことを知っておくのは実に大事だと思う。同時に、マスコミや政治をはじめ、こういう事実に触れずに(意図的に隠ぺい?)復古・保守の主張をし、けっこうみんな従っているのにはぞっとしないだろうか。まずは読んでみて下さい。

(2024年2月20日掲載)

 
●書評 山田國廣『核分裂 毒物テルルの発見』

中村ひろ子

 

ミニコミ紙に載ったこの本の書評を読んだ。核分裂で猛毒テルル発生? 化学毒? 初めて聞く元素記号になんだか分らない。しかしたいへんなことが書かれているらしいと思い、本屋に走った。

 

 序章が「空母ロナルド・レーガンの悲劇」で始まり、ともだち作戦で被ばくした経緯とたくさんの乗組員の被害証言が載せられている。どの人も、血や金属を嘗めた感じがして、外気にさらされた皮膚に焼ける痛みを感じ、そのうち頭痛、倦怠感を覚え、失禁、血尿、下血が続いて、身体がぼろぼろになっていた。もちろん死んだ人もいる。

 

この乗組員たちの証言を読んだ山田國廣氏は、放射能以外の何かが発生し、おそったのだと確信した。環境学者の氏は、毒性化学物質テルルが原因と推定し、核分裂の際に発生するものかわからないまま、多くの被ばく者の実例・証言を集めてみた。つまり、「猛毒テルルの被害だ」と実証しているのが本書だった。

 

単体では存在しない毒物テルルの説明のあと、原子爆弾によるヒロシマ、ナガサキ、核実験のマーシャル諸島、セミパラチンスク、原発事故のスリーマイル島、チェルノブイリ、そしてフクシマの証言を並べている。読み進むのは辛いものがあるが、共通する何かが作用していると見えてくる。黒い雨の正体もこれだったのだ(日米合同調査団は、距離と被害が一致しないと切捨ててきた)。

 

急性原爆症は「爆心地から3キロ以内の脱毛、紫斑、口内炎」とものすごく狭く限定されてきたのだが、この本を読んで、私はこれまで見聞きしてきた被ばく証言が一気につながったと思った。

 

核分裂の際、テルルが発生していることは世間にはずーっと隠されてきたので、山田氏は「テルルの発見」としているが、隠されてきたことこそ問題だろう。核分裂で毒物テルルが発生し、それが被害をもたらすことは、アメリカのオークリッジ研究所のデータライブラリーにも、そしてなんと福島第1原子力発電所の元所長二見常夫氏の著書『原子力発電所の事故・トラブル 分析と教訓』(2012年刊)にも書かれているという。

 

核分裂でテルルが発生し、放射性テルルは減っていくものの、安定テルルは半減期が無限大でたまりつづけていくというではないか。「もう核分裂を起こさせてはならない」ということだ。岸田政権は、再稼働どころは新設も目論んでいる。許してはならない。

 

山田國廣著『核分裂 毒物テルルの発見』3600円+税 藤原書店

(2023年7月5日掲載)

 

●Jane McAlevey, Abbey Lawler “Rules to Win by: Power and Participation in Union Negotiations”

                                                                                                                      北村巌

3年前に出版されたJane McAlevey Collective Bargain: Unions, Organizing, and the Fight for Democracy”の続編ともいうべき著作である。著者はカリフォリニア大学バークレー校の労働センターのシニアフェローであり、長年に渡り労使交渉や労働組合結成の実践にも関わっている研究者兼活動家である。

 

3年前の前作では、いかに職場で一対一の信頼関係を築き多数派を形成し組合の組織強化とストライキが大事かを説くとともに、病院での看護師の組合結成に関わった経緯を紹介し、その中で組合員一人ひとりがコミットすることをカードに書く運動など、組合員全員参加の運動こそ組合の交渉力を獲得するすべであることを説いた。

今回作では、最初に、いかに米国の組合潰しコンサルタントや弁護士が暴力的で卑劣であるかが、自身の経験から語られる。著者の労働運動への思いが伝わってくる。

 

本書の目的はケーススタディによって、いかに労使交渉において、オープンで一般組合員の高い参加による大きな交渉チームが透明性の高い交渉を行うことで交渉力が強くなり勝つことができるかということを示すことにある。

取り上げられたケースは9つあり、看護師、教員、ホテル、新聞記者の組合で、公共部門3つと民間部門5つ、両者が重なるケース1つが扱われている。著者自身が交渉に関わったケースである。その上で、ポイントとなる事項を20点具体的に指摘している。

 

日本と米国では労働法性が大きく違い、必ずしも参考にはならない点もあるが、今後、労働運動の担い手を育てていくために参考になる点も多々あるのではないかと思う。筆者にはコメントする資格はないかもしれないが、ともすれば、我々はここの闘いに負けても、広がりゆく団結が大事と自らに言い聞かせてきた面があるように感じる。しかし、やはり最大限勝つ努力、しかも組合員の多くが参加し理解する闘いを精一杯やってこそ、だろう、と思う。米国も日本同様労働組合組織率が大きく低下した国であり、そこから反撃し始めている動きには学ぶものがあるのではないだろうか。

 

Oxford University Press (March21, 2023)  29.95ドル(Amazon) 312ページ

(2023年6月4日掲載

 

 

 
 
●むのたけじ『老記者の伝言 日本で100年、生きてきて』
                                                                          中村譲
                                                                               
 著者は、1915生まれ。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業し、報知新聞を経て、朝日新聞記者。中国、東南アジアでの派遣取材を経験した。45年8月15日、敗戦を機に朝日新聞を退社。郷里の秋田県横手市に戻り、48年から週刊新聞『たいまつ』を創刊して主筆を務め、『たいまつ』休刊(78年)後は、著作・講演等で活躍した。
 
 本書は、著者94歳の2009年から101歳で亡くなるまでの7年間、朝日新聞東北6県版に連載された『むのたけじの伝言 再思三考』150編からの抜粋である。
 『むのたけじの伝言 再思三考』は、朝日の記者である木瀬公二氏が聞き手となり、書き手となって、著者が社会の出来事について、「(木瀬氏と)徹底して検討を加えた記録」である(本書「まえがき」)。

 86編が選ばれ、「どうしてこんな国になった」「戦争とはどんなものか」「やるならトコトン、あきらめるのをあきらめろ」「東北と沖縄」「100年生きて、わかったこと」の5章に分けられている。取り上げられているテーマは、「戦争責任」から「ゆるキャラ」までさまざまであるが、内容はすべて今日的である。
 「100年の『経験智』からのメッセージ‥‥‥この本を手にしたあなたにそれをきびしく吟味してもらいたい」と著者は言う(本書「まえがき」)。しかし一読すれば、吟味されるのが読者の方であることが明らかになる。メッセージ一つひとつが、「あなたはどう考えているか、考えたことがあるか」「どう考え、どう行動してきたか」を問いかけてくる。

 著者は、自分自身の行動にも「徹底した検討」を加えている――戦時中「ウソの記事を届けてきた責任をとる」ために、敗戦の日に朝日新聞を退社したのは浅はかだった――と言うのだ。
 「辞めずに残って、なぜあの戦争が起こったのか。なぜ止められなかったのか。本当のことを書く新聞だったら開戦の日や、南方で多くの兵隊が亡くなった日々をどう書いたか。そういう検証記事を書かねばならなかった。」(本書56ページ)
 
 著者が欲しいのは読者の同意ではない。逃げずに、共に考え、行動することである。
 自分ならどうするか、厳しく問い詰められる書である。
 
朝日新聞出版 2022年7月7日 880円(税込) 288ページ
(2023年5月7日掲載)
 
 
●羅芝賢(ナジヒョン)『番号を創る権力−日本における番号制度の成立と展開』

東京大学出版会(2019年3月 4600円+税

                                  相馬良夫

 

2019年のマイナンバー制度における「情報連携」及び「マイナポータル」の本格運用等の開始以降、私の勤務している日本年金機構では、マイナンバーの活用は日常業務上不可欠なものになっている。「情報連携」とは、私のところでいえば、住民票や所得、雇用保険など、年金事務に必要となる他の行政機関の情報をネットでやりとりできる仕組みである。窓口で年金相談をしながらでも、ほぼ即時でアクセスできる。ただし、戸籍情報は結びついていない。

本書は、この「魔法のように便利」な国民番号制度成立の前史である。著者は、比較歴史分析という手法で、政治学や行政学の研究をしている。その知見を用いて、国家や行政に作用する諸力の働きを記述し、妥当な説明を与えている。「国民総背番号」という言葉をとってみると、社会運動論的には国家権力による支配と、それへの対抗の問題と単純化されがちである。ゆえに、本書のような社会学的観点の分析は弱いと見る向きもあるだろうが、著者の視野は包括的でダイナミックである。

 

著者の問題意識の端緒であり、本書の主要な論点のひとつに「プライバシー意識論の限界」がある。日本における国民番号制度導入は、「プライバシー保護」の観点から挫折を繰り返したという言説が一般に受容されている。これについて、「プライバシー保護という考え方は、1960年代に反合理化闘争の一環としてコンピュータの導入に反対していた労働組合によって政治的に使われ始め、その後も、1980年代に大蔵省と対立関係にあった自民党政治家、1990年代の政治改革で浮上した改革派政治家などによって戦略的に利用されてきた。統一個人コード、グリーンカード制度、そして住基ネットへと続いた日本政府の構想が国民番号に対する負の印象を作り上げたのは、様々な主体がプライバシー保護の論理を政治的に利用した結果なのである」とする。なぜなら、個人情報保護は遅れて1970年代から整備が意識はされだしたが、2000年代に住民票や戸籍の不正取得問題が浮上するまでは、本人確認制度の不在のままに交付されていた実態だったことを挙げる。

こうした政治論のうえに、20世紀後半の情報化の急速な進展に関する、技術論や産業論、さらには、戦後資本主義社会を特徴づける社会権の伸長、すなわち福祉国家論を絡めた議論を加えて、分析が展開されている。

 

また、「歴史的制度論(歴史的制度主義)」などにいう「経路依存性」の観点からした、日本と韓国の国民番号制度導入に関する歴史的差異の分析も興味深い。戸籍制度という住民管理が戦前に押し付けられ、戦後に崩壊した韓国では「住民登録番号」が早くから導入、拡充されたが、戸籍制度が温存された日本では、様々な番号制度がぶら下がるように分立し、かえって国民番号導入が遅れることになったという。これは、韓国出身の著者ならではの論点といえる。

さて、2002年に開始された住民基本台帳ネットワークシステムによって、すでに人々には住民票コードが付されていたが、これが、2013年にマイナンバー法(「マイナンバー」は通称で、「個人番号」が法律上の正式名称)が公布され、新しい「個人番号」にすり替わった。これは、2015年のマイナンバー通知で人々に知らしめられた。一方で、2013年に「政府共通プラットフォーム(政府情報システムのクラウド化)」の運用が開始され、政府内では、システム上、人々の情報を収集し、使いまわす仕組みは周到に整っている。

 

「社会保障・税番号制度」とも通称されるマイナンバー制度は、現場から見ると、急速で圧倒的な展開である。そして今、人々に、この制度への「忠誠」を突き付けるかのごとき健康保険証を巡る問題が騒がれてはいる。が、焦点がそこだけで十分なのかという気はする。1984年生まれのこの若き女性研究者は、2005年に交換留学生として初来日して、この研究業績を成した。こうした動向を、著者が今後さらにどう位置付けていくのか、期待を持って見守りたいと思う。

(2023年3月30日掲載)

 
 
●書評 斉藤公平 ゼロからの『資本論』
NHK出版新書 (2023年1月10日) 1023円
                    
              武元 四男
 
 本書は「NHK100分で名著」として2021年1月から12月に放送された「カールマルクス」「資本論」のテキストを底本として、新たな書き下ろした章を加えたものとされています。
 
 マスコミが、斉藤氏に「人新世の資本論」の次の著作出版を聞かれたとき、「考えられなかったウクライナ戦争も起こったので、整合性があるものでないといけない事から、時間がかかる」と言われていた。今回、本が出され、新たな章が付け加えらたとのことで興味を持った。

目次を見る限り、「第五章 グッバイ・レーニン!」「第6章 コミュニズムが不可能だなんて誰が言った?」が追加されたと思う。その中には、いくつかの論点があるが、気になった点を紹介したい。
 
(1)「唯物史観」からの転向(p192)
  資本主義の「囲い込み」と工業化によって、自然のもつ力が壊されたが、マルクスの同時代にロシアの農耕共同体であるミールがあり、 マルクスは晩年に研究した。ミールに、西欧社会と比較して「経済的優位性」を認め、 近代化の進んでいない農耕共同体に、定常型の共同労働・共同所有を実現している。そのことが、平等と持続可能性の源泉になっていた。マルクスにとってこれは、非常に大きな転換を意味する。

  一般的なマルクス理解によれば、生産力を発展させていくことが、歴史をより高い段階と進めていく原動力であり、これを「唯物史観」と呼ぶが、そのような歴史観は容易に、技術革新の進んでいる先進国が、世界で最も進歩的な地域であるという主張に結びついてしまう。そうすると、「野蛮人」を啓蒙するために資本主義による「文明化」が必要だ、となり、植民地支配が正当化されてしまう。 「唯物史観」が人種差別の原因になってしまう。事実、マルクスは20世紀に入ってから、「ヨーロッパ中心主義の思想家」として繰り返し批判された。しかし、マルクス自身はロシアやほかの非西欧共同体を研究するなかで、そのような歴史観(唯物史観)と決別するようになった。つまり、西欧が失った平等や持続可能性をいまだに保持している共同体社会の可能性を高く評価するようになり、コミュニズムの基盤になるとさえ言った。・・・と、「唯物史観からマルクスは決別した」と述べられている。このことには批判的検討が必要であると思った。
 
(2)「否定の否定」の理解(p198)
 そして「否定の否定」とは、資本の本源的蓄積に「よって「否定」され、生産手段と自然を剥奪された労働者が、資本の独占を「否定」し、解体して、生産手段と地球を「コモンとして」 取り戻す、ということだ。とされ、この「否定の否定」の弁証法の使いかたが、正しいのかどうか。
 
(3)BI(p173)とMMT(p175)を批判
 BIという提案がそもそも出てきた背景には、労働運動が弱体化し、不安定雇用や低賃金労働が増大していることが挙げられる。労働運動が頼りないので、代わりに国家が貨幣の力を使って、人々の生活を保障しようとするのがBIだ。
 階級闘争なき時代にトップダウンで行えるような政治的改革が、BIであり、税制改革であり、MMTである。これらは、政策や法の議論が先行する「法学幻想」に囚われて、そのアソシエーションを作るという視点が、BIにも、ピケティにも、MMTにも乏しい。それに対して、物象化・アソシエーション・階級闘争というマルクス独自の視点をここに導入することは、思考や実践の幅を大きく広げてくれるし、これらの大胆な政策提案を実現するためにも、欠かせない前提条件だ。マルクスは、上からの設計だけで、社会全体が良いものに変わるという考え方を退けた。(これはトマス・モアのような設計主義的なユートピアと大きく異なる考え方です。)と、書かれている。参考になると思った。
 
(4)パリコンミューンの評価(p202)
パリ・コミューンが大事なのは、社会主義の欠点としてしばしば言われるような、官僚支配が画一性を押し付け、自由や民主主義を犠牲にするという批判が、まったく当てはまらないような社会を実現したからだ。むしろ、一般の男性・女性が参加したコミューンは多様性にあふれる、民主的で平和な自治組織だったと言われている。コミューンには、あらゆる外国人の参加が認められた。さらに、国家の暴力装置である軍隊や警察は解体された。 そして官僚制を解体するために、労働者たち自身が構成員となった議会は、立法するだけでなく、その執行も行う行政機関として生まれ変わった。もちろんそれでもいくつかの官僚的機能は残ったが、その賃金は一般の労働者なみに下げられ、市民によって選ばれ、いつでもリコールできる代表者に取って代わられた。 そして、聖職者たちは「生活の隠遁所に送り返され」(教会や学校など公の場での職務から追放され)、教会の資産は没収された。・・・とかかれ、パリコンミューンを極めて高く評価されている。同感だ
 
(5)本書は、『資本論』を使った、ひとつの問題提起(p235)
斉藤氏は、この本は入門書だけれども、資本主義批判としてだけでなく、コミュニズム論にもなっている。マルクスについての本は膨大な数があるが、コミュニズムという視点から書かれた入門書がないことが、現在のマルクス主義や左派の低迷をもたらしている。もちろん、本書の『資本論』解釈が絶対的に正しいものだと言うつもりは毛頭ない。マルクスのどの時期に着目するか、どの論点を強調するかで、浮かび上がってくる姿はかなり異なってくる。例えば、マルクスは技術を素朴に賛美していたわけでもない一方で、頭ごなしに拒絶していたわけでもない。この両義性をどのように解釈するかで、マルクスの思想は違った一面を見せるし、それに合わせて、将来社会の構想も変化する。だから、古典は面白い。今でも私たち自身の問題意識を映し出す鏡として、『資本論』は何度も違った視点から読み直す価値がある。と述べている。

 この本を読んで、斉藤氏「現在のマルクス主義や左派の低迷をもたらしている」ことから、どう運動を前進させるかという観点で書かれている本ではないかと思った。是非、ゼロからの「資本論」を読んでいただき、批判的検討を御願いしたい。
 
(2023年2月28日掲載)
 
 
 
●書評 聽濤弘『マルクスの「生産力」概念を捉え直す』

かもがわ出版 (2021329) 2200

熊谷 重勝

 

 マルクスの文献を読み進むと、生産力と生産性ということばのちがいに引っ掛かりを覚えたものでした。この二つのことばは、おなじ意味のものだろうか、それとも異なるものだろうか、異なるとしたらどのように異なるのか、などといった疑問が残ったものでした。こうした疑問に果敢に取り組んだ本がここに紹介する文献です。

 

 著者の聽濤氏は、生産力と生産性のちがいを、まずはマルクスの原典、そしてレーニンのロシア語訳の用語法から検討していきます。生産諸力Produktivkrafteと生産性Produktivitatの関係を明らかにするにあたりドイツ語の単数と複数のちがいから「ドイツ語も抽象度の高いものは単数形を使い、具体的に各種のものを表す場合は複数形になる」と展開します。

 

マルクスは『経済学批判』「序言」で、有名な文言「社会の物質的生産諸力(materiellenProduktivkrafteは、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる」と書いています。ここでは資本主義社会の生産力の発展は、いずれ生産関係と衝突するという文脈のもとで読み取ることができるでしょう。

 

 ところが『資本論』第1巻の第13章「生産物への機械設備の価値移転」では、「大工業は、巨大な自然力と自然科学とを生産過程に取入れることによって、労働の生産性(die Produktivitat der Arbeitを極度に高める…が、しかし、この高められた生産力(Produktivkraftが、他面における労働支出の増加によって購われるのではない」とあって、ここでは生産力と生産性を区別していません。

 

 そして第10章「相対的剰余価値の概念」では、「労働の生産力(Produktivkraft der Arbeit)の発展による労働の節約は、資本主義的生産においては、決して労働日の短縮を目的としない」とあり、生産力の発展は、剰余価値の搾取強化を目的とするものとして位置づけています。

 

 著者は、「『生産性』の向上は労働強化・搾取強化を意味するものとして否定的に捉える向きがかなりある。…それでも大きく纏めてみると次のことはいえる。@複数形と単数形とでは意味に違いがあること。A単数形の『生産力』と『生産性』とは同じ意味であること。B社会全体との関連でみると史的唯物論の基礎概念として『生産諸力』をとるのが『普通』である」とのべています。ともあれ本書の「あとがき」では「私は本書を出版することに逡巡してきた。これまでのマルクス主義の常識に反することを書いたからである」と執筆の苦心を述べています。

 

自民党政府や経団連さらにマスコミは、いまだに生産性の問題を大きく取り上げて、生産性向上の必要性を喧伝しています。そこに潜む資本の狙いを私たちは的確に読み取るためにもマルクスの概念を明確にしなければなりません。そんななかで著者は、理論的、実践的に重要な概念の関係性を果敢にわかりやすく議論を展開しています。先達のさまざまな意見についてもていねいに読み解き明解に議論する姿勢からは、結論の賛否を越えて、みずから考えることの大切さを想い起こさせる良書といえます。なお意見を異にする人たちとの論争のようすは、さらに『「論争」地球限界時代とマルクスの「生産力」概念』(かもがわ出版、2022年)として出版されました。

 

2023130日掲載)

 

 

 

 
●アーロン・ベナナフ『オートメーションと労働の未来』
     (佐々木隆治 監訳、 岩橋誠 ,萩田翔太郎訳:
            2022年10月堀之内出版、2420円)
                                                                                          田久保文雄
 
 この著作は、AI ・ ロボット・完全自動化による「労働代替(大量失業)」が不安視される中で、右派から左派に広がっている「オートメーション論」、大量失業+ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)という政策提案、の批判という形式をとる。しかし、それは表面的なもので、実際には以下のことが本論と思われる。
 
 まず、「ポスト希少性=資本主義後」・オルタナティブとして、一般的には古典的と思われている「マルクスの社会主義」が明確に再提案されていること。この点には、驚きを感じるとともに敬意を表したい。(『』は挿入)
 
 「私たちは、『投資のプロセスを集団的に制御』し、人々の実際のニーズを満たし、『経済的な意思決定の方法を徹底的に民主化』しなければならない。『人々の生活に必要な財やサービスの大部分を無償で提供』する『条件は整っている』」。
 
 「家事労働やケア労働のような現状では『公式の経済活動とされていない労働』も含め、『すべての労働を再分配し労働量を減らすこと』によって、人々が『自分の人生を自由に決定すること』ができる、『自由の領域が拡大』されていく」。
 
 これは私見では、「マルクスの社会主義」の核心である、@自由な個人としての人間的欲望の充足(消費・生産・政治等全領域)A労働時間の短縮=自由時間の拡大、
の明確な現代的表現であると思う。また、はるか先の共産主義ではなく「即実行される社会主義」の条件である。理論的には未熟・不明点(生産・分配での労働時間の役割、計画問題の不鮮明、過渡期はどうなるか等)があるとはいえ、「実際はほとんど何も提示されないオルタナティブ論」とは一線を画す、秀逸な主張と言える。
 
 また、その実現には、「労働者と広範な市民社会を基盤とする大衆運動」が必要であり、避けて通れない「本質的な障害」である「資本・富裕層の抵抗」と闘うことを条件とし、啓蒙的な「UBI論」を批判している点も重要であろう。
 
 それ以外にも、@戦後は各国とも債務償却に専念したのであり、国家財政出動というケインズ主義経済が始まったのは20世紀末以降でしかない。A70年代までの世界的な労働運動の高揚は資本主義の戦後の「黄金時代」の成長を前提としたものでしかなく、現在・今後のオルタナティブが必要な労働運動とは無縁(連続しない)である。B現在の最も重大な問題は、中国を含めた全世界の過剰生産力による低成長であり、原因は工業・製造業というエンジンの喪失のあと、それに代わる投資先がないことである。C雇用はサービス業へ移動しているが、低成長をさらに進めるもの、実際には半失業・産業予備軍でしかなく、今後低成長を脱する可能性はない。等の検討が必要な視点も提示されている。(2022.12.30掲載)
 
●藤田孝典『コロナ貧困 絶望的格差社会の襲来』
                                立松潔
 コロナ禍によって非正規雇用など経済的弱者が解雇・雇い止めなどの犠牲になり、生活困窮者が急増している。本書はそのような貧困層の悲惨な実態について具体的な事例をもとに紹介すると同時に、その社会的背景、政策面での課題を明らかにした著作である。
 
 コロナ禍の貧困と格差拡大の実態については本書の第1章と第2章で多くの事例が紹介されている。特に第2章で取りあげられているのはコロナ禍で生活危機に直面する母子家庭やシングル女性の深刻な事例である。そしてそのような女性の悲惨な状況は、日本社会の女性差別的構造によって生み出されたものであることが明らかにされている。貧困に陥った女性がやむを得ず性風俗の仕事に従事せざるをえない事例も珍しくない。第3章ではこのような追い詰められた女性の悲惨な状況に無理解な芸能人の問題発言を取りあげ、日本の性差別のグロテスクな側面をえぐり出している。
 
 第4章では貧困の危機に陥った人たちの命と暮らしを守るための支援・相談窓口が紹介されている。経済危機で失業率が上がることによって自殺率も上昇している。筆者によれば、相談窓口の第一の役割は、雇用喪失により住居も失い路頭に迷って将来を悲観した人々の命を守ることである。生活困窮者が利用可能な様々な救済のための制度、住居確保給付金、休業支援金などについても紹介されており、貧困救済のためにそれらが積極的に活用されるよう願いたい。
 
 そして第5章は格差是正や生活困窮者対策など社会福祉全般に関する政府への政策提言と、個々人の生存を守るためのソーシャルアクションについての提言である。住まい・医療・介護・教育・保育などのベーシックサービスの無償化や低負担化に取り組むこと、非正規ではなく正規公務員をもっと増やして公共サービスの向上を進めること、富裕層から臨時徴税すること、生活保護バッシングを撲滅し、生活保護を受けやすくすること・・・などの、多くの提言がわかりやすく解説されている。
 
 以上のように、本書はコロナ禍によって明らかになった日本社会の矛盾や問題点を明らかにした優れた告発の書である。日本国内に広がっている「自己責任論」が、格差や貧困問題の解決を妨げている。本書を是非多くの人に読んでもらい、自己責任論という誤った風潮を消し去って欲しいものである。
                           毎日新聞出版、2021年8月発行、1200円+税
(2022年12月5日掲載)
 
 
●21世紀職場の現実と閉塞感−斎藤美奈子『日本の同時代小説』紹介
                                                                   瀬戸宏

 小説を中心とした日本文学の概説書としては、中村光夫『日本の近代小説』、同『日本の現代小説』が名高い。どちらも岩波新書という媒体もあって、広く読まれた。
 しかし中村光夫のこの本や類書は1960年代で終わっている。斎藤美奈子『日本の同時代小説は、中村光夫『日本の現代小説』の続編をめざしてやはり岩波新書の一冊として2018年11月に出版されたものである。
 
 本書が中村光夫らと際だって異なっているのは、いわゆる大衆小説やノンフックションも取り上げていることである。中村光夫の時代には、小説(文学)は芸術であり、いわゆる純文学だけが文学(小説)という概念が、まだ強固に生きていた。斎藤美奈子が大衆小説やノンフックションも含めたのは、文学の概念が中村光夫らの時代とは大きく変わってしまったことを示している。
 
 1970年代以降といっても、すでに50年以上の歴史があり(本書は前段として1960年代から始まっている)、取り上げられた作家、作品は300を超える。本書で扱われている小説は広範囲に及び、その全貌はここで紹介しきれるものではない。それは別の機会に触れたい。
 
 私が注目したのは、斎藤美奈子が、21世紀部分で「二〇〇〇年代の格差社会の困難は『がんばれば報われる社会』ではないことです。上り坂の時代に青春時代を送った人には、そこが理解されにくい」(p212)と述べたことである。そのような時代を反映した「お仕事小説」と呼ばれた小説が主に女性作家によって書かれていたという。その一つ、山崎ナオコーラ『浮世でランチ』(2006年)の女主人公は「私の時間はゴミのようだった。あの会社では、毎日、深夜まで残業をしていたのだけれども、長時間労働が自分の成長に繋がるということはなかった」とつぶやく。2010年代に入ると、男性作家からもブラック企業など労働現場を題材にした小説が書かれるようになったという。
 
 2010年代はまた東日本大震災・福島原発事故により、日本の将来の限界が露わになった時代でもある。斎藤美奈子は、この時代をディストピア小説の時代と呼ぶ。ディストピアとはユートピアの逆で、希望のない閉塞感に満ちた暗黒社会の意味である。そして「労働環境の悪化、少子高齢化、震災と原発事故、そして安全保障条約の転換と、巷で囁かれる民主主義の危機。ディストピア小説の流行は、現実の厳しさに呼応しています。小説家は時代の空気をしっかり吸っているのです」(p257)と指摘する。
 
 この本が刊行された後、コロナ禍という予測できなかった事態で、日本のディストピア化はいっそう強まった。本書は、小説を通して私たちが生きているこの社会がどのような状態か、それを知る手がかりを与えてくれる著作である。
(2022年11月5日掲載)
 
 
●本の紹介 井上輝子『日本のフェミニズムー150年の人と思想』(有斐閣、2021)        2022926日  平地一郎
 
 

日本の女性学の「生みの親」であり、フェミニズムの思想を深化させたと評価される著者は、昨年8月に亡くなった。その直前まで日本のフェミニズムの歴史をまとめようとして叶わず、残された遺稿を元に刊行されたのが、本書である。

 

 本書の扉の編者による紹介にはこうある。「(井上輝子は)穏やかな人格円満な学者として定評があるが、若き日の情熱がほとばしる瞬間がある。日本婦人問題懇話会と山川菊栄記念会を語る時だ。学びの場でありシェルターでもあったという懇話会、山川菊栄、田中寿美子への思いは深く熱く、それを若い人に伝えようとする意欲と気迫に驚かされることがしばしばだった」。

 

 たしかに、文章のタッチは柔らかく、そして信念の強さを感じさせる内容である。

 日本におけるフェミニストとして2人を挙げ、その人と思想が詳しく語られている。「不屈のフェミニスト」山川菊栄と「20世紀を駆け抜けたフェミニスト」田中寿美子である。言うまでもなく、田中寿美子は婦人会議(現・i女性会議)の初代議長の一人である。

 

 直接、本書を読んでほしいが、私の率直な感想としては、私たちは社会の一部しか見ていなかったのではないかという、反省の気持ちがいっそう強くなった。本書に刺激されて上野千鶴子『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平―』(岩波現代文庫、2009)も読んでみた。少なくとも、私たちはマルクス主義フェミニズムの線まで前進する必要がありそうである。社会主義婦人論に始まった山川菊栄も、その人と思想は、そうした境地にあったのではないかと思う。

                         

 

● 書評・「資本主義と闘った男」 佐々木実著 講談社
 

まるがめ医療センター・ 業務推進役 加藤繁秋

 

 私が鵜沢弘文を知ったのは2000年初めに「新自由主義」批判を内橋勝人と一緒に雑誌「世界」に発表されたものを読んだのが始まりです。それまでは「向坂逸郎」しか知らなかった私ですが、彼等の「新自由主義批判」は適格で心に染みるもので、とても新鮮でした。

学習会の資料にも使い、仲間と議論するときも彼等の論文を参考にしました。当時は新自由主義批判は「ケインズ経済学者」も批判していました。また、新自由主義の推奨者「ミルトン・フリードマン」についても調べてみました。彼はシカゴ大学教授でした。彼は、1964年、暗殺された故ケネデイ大統領の後を継いだ、リンドン・ジョンソンに挑戦したバリー・ゴールドウォーターの経済顧問を引き受けるなど政治へのかかわりが深かった人です。また、次の大統領選挙でも、共和党候補リチャード・ニクソンのアドバイザーを務めています。そして、レーガン大統領のときにフリードマンの経済思想が現実の政策に反映されることになったのです。彼の論敵が鵜沢弘文だったのです。

 

 このような関係から「鵜沢弘文」の論文を漁っているうちに、「社会的共通資本」に行き当たりました。「社会的共通資本」とは、生活・労働をしていく上で誰もが必要としている水、電気、交通などを「共有」にして、その運営をそれらの専門家によって行っていくというようなものです。他のサービス部門は市場経済に任すというものです。私は、当面の目指す方向はこれだと思いました。社会主義社会を平和的手段で成し遂げようと努力をしてきて、今日の状況を見たときに一挙に社会主義社会を目指すことは難しいと考えたからです。

 

 鵜沢弘文は、マルクスもレーニンの著作も読んでいます。しかし、彼はシカゴ大学でフリードマンと論争しているうちに、それだけでは太刀打ちできないと考え「社会的共通資本」にたどり着いたのです。「資本主義と闘った男」は、佐々木実氏が書いた「鵜沢弘文」の自伝です。シカゴ大学でフリードマンとの論争、米国での「赤狩り」にであったこと、また、新古典派経済理論との論争、世界の先輩学者たちとの論争など理論的にも、鵜沢の人間を知る上でも必読の書だと思います。

 

 

 
いま必読の2冊

@金子勝・大沢真理・山口二郎・遠藤誠治・本田由紀・猿田佐世『日本のオルタナティブ』(岩波書店、2020年、1700円)

Aデービッド・アトキンソン『日本人の勝算』(東洋経済新報社、2019年、1500円)

 

伊藤 修

 

 日本の現在は、経済、政治、社会意識のいずれも「劣化」「衰微」というべき状態であり、ひじょうにまずい。何が問題なのか。そしてどうすべきか。この喫緊の課題を考える手助けとして、最近の本から上の2冊を強く薦める。

 @は、経済(金子)、税・社会保障(大沢)、社会(本田)、外交・安全保障(遠藤)、沖縄(猿田)、政治(山口)と、現代日本の主要な問題である6分野をとりあげて、問題のありどころを分析し、対策を提言している。意見が違う点ももちろんあるが、だいたい納得、賛同できる。猿田の章は沖縄に押し付けられている問題への入門になり、大沢の章の(主に女性の)就業を抑制している理不尽な制度の分析など、勉強になる。テレビ局の認可を総務大臣から第三者委員会に移すべしとの提言などは、マスコミの翼賛化をみると、なるほどと思う。

 多くの方に読んでほしい。さらに、できれば本書を材料に討論の場をつくってもらえるとよい。一部意見が違おうが(それは当たり前のことである)、日本を救うための議論の素材として本書は好適だと思う。

 Aは、在日30年のイギリス人エコノミストが、日本経済が蟻地獄から抜け出すカギは賃上げ、とりわけ最低賃金の引き上げにある、とした研究である。著者は、世界の研究を調べた上で、先進国経済には、「High road capitalism」(高次元の資本主義)と「Low road capitalism(低次元の資本主義)とも呼ぶべき2つのあり方がある、との説を採用する。前者は北中欧が典型で、高賃金と高度な労働者、高い生産性を競争力の源とする。これに対して後者は、とにかく労働者を安くこき使うことに頼って勝負しようとする型である。日本は、人口がどんどん増えた高度成長期までは「低次元」でもよかったが、世界一の人口減少に陥った今でもまだ、世界に冠たる無能な経営者が、安さで勝負の一つ覚えを続けようとしている。その結果、すぐれた労働力を活かせず、生産性は低く、世界での地位を落としている。イギリスの先例のように最低賃金を上げ、賃金全体を押し上げて、「高次元」タイプのやり方に企業を追い込むしかない、というのが著者の処方箋である。

 以上の考えに私はまったく賛成である(一点だけ加えたいのは、賃上げに労働運動が貢献すべきという点だ)。日本人はアメリカ一国だけ見てマネせずにもっと世界各国を見よ、という忠告にもまったく賛同する。

 なおAと同じく賃上げが肝要とする本に、山田久『賃上げ立国論』(日本経済新聞社、2020年、1800円)もある。別の詳しい分析も付いているので、あわせて読まれるとよい。(2020.4.9掲載)

 

 
書評:小池和男著『仕事の経済学』
 
早瀬 進 
 

昨年、日本の著名な労働経済学者である小池和男氏の訃報が新聞に掲載された。その著書『仕事の経済学』(東洋経済新報社、初版1991年〜第32005年)は氏の労働調査をもとにまとめられた教科書である。ここでは、氏の研究を振り返りながら、この『仕事の経済学』を紹介する。

 

 小池和男氏は、東京大学の故氏原正治郎氏の研究に対する批判を出発点としながら、熟練形成の国際比較を進め、日本の熟練の特質を明らかにしようとした。氏原氏は、京浜工業地帯で行われた労働調査に基づく論文「大工場労働者の性格」(1953年)の中で、日本企業は不熟練労働者を採用した後、企業内の訓練により熟練労働者を育成していくことに注目し、これを日本的な熟練形成と把握した。

 

この氏原氏の見解に対して小池氏は疑問を呈し、米国等の労働調査により、欧米にも企業内の熟練形成が見られることを明らかにした。小池氏は『仕事の経済学』初版の中で氏原氏の見解を「日本的熟練」論と規定して批判している。それでは小池氏は、日本の労働者の熟練をどのようなものとして考えているのであろうか。

 

小池氏によれば、日本の労働者の技能は「知的熟練」であるという。知的熟練とは、「問題と変化をこなすノウハウ」である。それは「問題への対処と変化への対応」ができる技能であり、具体的には問題の原因推理や不良の原因の手直しができ、生産方法への変化等にも対処できる技能を意味している(第2版、pp.12-16)。問題処理には機械の構造や生産のしくみの知識が求められるため、この技能を「知的」熟練と氏は呼んでいる。

 

氏はこの知的熟練のために、日本のブルーカラーの賃金は年功的なカーブになると見ている。しかしこの見解に対しては、若干の疑問を抱かざるをえない。ドイツのマイスターは上記のような知的熟練を有していると推測されるが、ドイツの賃金は日本とは異なり、職務給となっているからである。

 

 このような疑問があるとはいえ、『仕事の経済学』は、精力的な調査と、そこから一般的な命題を抽出しようとする氏の研究姿勢から生まれた学術書である。それはマルクス経済学に立脚する書物ではないが、終身雇用や年功賃金に関わる問題提起も展開されており、その意味でも興味深い。また、氏が高齢者の雇用の継続に寄与する主張をしていたことは記憶しておくべきことである。日本の高齢労働者が蓄積した熟練の重要性を指摘している点でも、同著は傾聴に値する。(2020年3月15日掲載)

 

 
●田上孝一『マルクス哲学入門』
                                                                          瀬戸宏

 著者の田上孝一氏は1967年生まれで、大学院生時代からマルクスを哲学者として研究し、マルクス疎外論研究で博士の学位を得た。『初期マルクスの疎外論−疎外論超克説批判』(時潮社、2000年)は、博士論文を刊行したものである。立正大学講師などを務めながら、哲学、倫理学の研究を続けている。社会主義理論学会事務局長でもある。
 
 田上氏には単著、編著をあわせて多数の著書があるが、この『マルクス哲学入門』(社会評論社、2018年,1700円+税)は一般読者向けに入門書として書かれたものである。田上氏によれば、日本ではマルクス(主義)経済学入門書は多いけれども、マルクス主義哲学入門書はこれまで三冊しかなく、「マルクス哲学」と題する入門書はこの本が最初とのことである。
 
 本書は130ページ余りの著作だが、扱っている問題は幅広い。本書の特徴は、題名の通り、マルクス没後に整理された“マルクス主義哲学”ではなく、マルクス自身の哲学思想を描き出そうとしていることである。本書の核心的内容は、疎外論は初期マルクスの見解でマルクスは後に疎外論を克服した、という通説を否定し、マルクスはその逝去まで一貫して疎外論者であり、『資本論』も人間疎外克服をめざすマルクスの思考の所産であるとみなしていることである。
 
 この観点にたって、本書は11章に分けてマルクスの生涯と主要著作を概観すると共に、マルクスとエンゲルスの関係、旧ソ連など現実社会主義をどう考えるか、マルクスの環境問題へのアプローチが分析される。環境問題を扱った第11章は、マルクスの思想が十分に今日の環境保護問題に適用できることを主張している。
 
 本書には、第10章で展開されている現実社会主義の分析など、私と考えが異なる部分もある。『資本論』を論じた第7章のようにもっと詳細に分析してほしいと思う箇所、『ゴーダ綱領批判』と未来社会を扱った第8章など必ずしも平易とは言えない箇所もある。そうではあっても、本書は一つのマルクス像を体系的に提出しており、今日マルクスに関心を持つ人が著者の見解に同意するか否かにかかわらず、読んでおくべき内容と言えよう。(2020年2月3日掲載)
 
 
J・ソール『帳簿の世界史』文芸春秋、2015

J・G・ホワイト『バランスシートで読みとく世界経済史』(日経BP社、2014年)

 

                    熊谷 重勝
 

どちらも世界史の話を簿記の発展史からわかりやすく解いた本です。

 

だいぶ前のことになりますが「複式簿記は資本主義的企業の概念を作り出した」という見解が経済学者から発せられたことがあります。『近世資本主義』(1921年)という本の中のヴェルナー・ゾンバルトのことばです。

 

そんな捉え方は逆だろうという意見が唯物史観を学んだ人からは出てきそうです。でも古いさまざまの資料を見つけ出して帳簿の歩みを調べてみると複式簿記の「偉大さ」が見えて、どうも資本主義の発展に及ぼした簿記の影響力に感動せざるをえなくなるようです。

 

そんな複式簿記の偉大さについてはドイツの文豪ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のなかで語らせています。これから旅に出かける主人公に向って友人が「複式簿記が商人にあたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね」と言わせています。

 

さてJ・ソール『帳簿の世界史』は、世界地図や当時の元帳、風俗画を多く掲載して、帳簿の世界一周となっています。簿記の起源を古代ローマの時代まで遡るかは意見が分かれるところですが、中世イタリアの商人活動、フランス革命期の国家財政、産業革命期イギリスの鉄道会計、大恐慌期アメリカの会計事務所と監査など、帳簿の歩みを興味深く辿っています。世界史という背景のもとで帳簿の歩みをみることは歴史や会計の専門家でなくても楽しいものです。

 

またJ・G・ホワイトは『バランスシートで読みとく世界経済史』のなかで「複式簿記の影響力の大きさに最初に気づいたのは、あまり知られていないが、19世紀のイギリスの簿記に特別な関心を寄せていたマルクスだった。…会計は生産工程、とくに付加価値が生み出される動きを可視化するためのものだった」と明言しています。

 

最近の社会のようすを短期でみたら未来への展望が見えにくいかもしれませんが、世界史という大きなスパンでみたら、この社会もいずれは終焉を迎えるんだという進化論的楽観に辿りつきそうです。                                                     (20191227

 
 
●橋本健二『アンダークラス ―新たな下層階級の出現』
                  
(ちくま新書、2018年、820円+税)
                                    立松 潔
 
 1990年代以降、デフレ不況が長期化する中で非正規雇用労働者が増加し、格差拡大と貧困問題が深刻化した。本書は日本社会の底辺に生きる非正規雇用労働者に焦点を据えてその実態を明らかにし、格差や貧困を解消するための方策について提言する。
 
 本書の定義によれば、アンダークラスとは非正規雇用労働者のうち、パート主婦と非常勤役員・管理職、専門職を除いた人びとのことである。現在の日本のアンダークラスの人数は930万人、就業人口の15%に達し、その平均年収は186万円、貧困率は38.7%だという。
 
 格差や貧困をめぐる実態について個別事例を紹介した文献は数多く出版されている。しかし、本書は個別事例の紹介ではなく、2015年に実施された「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)」と2016年の「首都圏調査」のデータをもとに統計的な分析が行われている。このアンケート調査の回収数は前者のSSM調査は7817人、後者は2351人である。
 
 この調査データをもとに本書は、年齢(60歳未満と60歳以上)と性別によってアンダークラスを4つのグループにわけ、4章から7章においてそれぞれについての特徴を明らかにしている。このようにして個別事例だけではわからないアンダークラスの人びとの意識や生活実態が統計的に明らかにされているのが、本書の優れた特徴である。
 
 本書の主張するところは、格差と貧困を解消し、アンダークラスの人びとがこの社会のなかに安定した場所を確保し、他の人びとと同じくらいの満足と幸福を得ることができるようにすることである。しかし現在の政府・自民党とその支持者達は自己責任論を掲げ、所得の再分配による格差や貧困問題の解決には否定的である。
 
 そして最大の問題はアンダークラスの人びとが政治に関心を失い、政党との結びつきも極めて弱いことである。本書が主張するように、所得再分配による格差の縮小と貧困の解消を中心課題に据え、アンダークラスの人びとを結集し、その要求の実現に向けて運動を進めることが、問題解決のためには不可欠である。本書はそのための道筋や取組みを検討するための重要な情報を提供してくれている。貧困と格差の問題解決に取り組む多くの人に読んでもらいたい本である。
(2019.11.25掲載)
 
 
ヘゲデューシュ(平泉公雄訳)『社会主義と官僚制』 (大月書店、1980年)

杉本龍紀 

 

ハンガリーのヘゲデューシュ・アントラーシュが1976年に出版した論文集(邦訳は1980年)である。

ヘゲデューシュは、第2次大戦期の共産主義運動から、ハンガリー勤労者党中央委員を経て、1956年のハンガリー動乱(事件)勃発時に首相を務め、地位を追われた。その後、社会学者として研究の世界に転じ、中央統計局副長官や科学アカデミー附属社会学研究所長などにも就いたが、官僚制に関わる批判的論文により、73年に社会主義労働者党から除名されたとのこと。収録された論考は、東欧諸国では先駆的だった68年からの「新経済メカニズム」導入(「市場社会主義」の実験とされた)を前後する時期のものである。

 

ポイントは2つ。第1に、社会主義において国有であれ協同組合所有であれ、集権的国家行政システムであれ自主管理であれ、企業の内部には、一方では、専門知識を有し職業的に統治と管理を担う専門統治集団が専門化・ヒエラルヒー化・規格化を特徴とし権力的決定権限を有する専門統治機構を形成し、他方には、この権力構造に加われず権力行使の対象となる勤労者、という二分化が必然的に発生し、専門統治集団が官僚制を形成するという理解である(「官僚制」と「官僚主義」は明確に区分される)。

 

社会主義における「官僚制」は、「社会発展の現段階では」「これまでの経験では」、「歴史の必然性」であるとする。この理解は、旧ユーゴスラビアでの「官僚主義的中央集権主義」を廃絶し社会統治と専門統治に伴う権力を「勤労者の共同体」に移譲することを目的としていた社会的自主管理の経験にも共通する。自主管理機関に十分な専門知識などがないままに専門統治機構が不可避的に形成されたとされる。

 

とはいえ、この官僚制は「最も厳密な意味」では、社会の発展が分業などの一定段階において不可避的に生み出した一歴史現象にすぎず、いずれ、勤労者の社会から分離した統治機構を不要とする発展段階がくるはずである、とも述べる。

 

2に、専門統治機構は社会的分業において独自の位置を占め、社会の普遍的利害と目的に一致しない局部的利害と目的をもち、自己の自立性、独占的地位すら求めうるもので、「最適化基準」には適合するが「人間化基準」と矛盾する存在であるとの主張である。

そこで、専門統治機構に対し、新たに設置資する企業監督委員会による社会的統制を進めて、勤労者が行動する社会集団に専門統治集団を従属させるなどの、専門統治権力に対する社会的支配を打ち出している(有効性や現実性は不明だが)。

 

社会主義体制の崩壊に伴って、市場社会主義的な議論とともに協同社会的な社会構想が打ち出されてきたが、その社会構想において「企業」的な経済組織への現実的な関心が薄い気がする。40年以上前の書物だが、社会主義社会における階層分化の根拠とともに、企業における現実的な諸関係に目を向けさせるものでもあった。

(2019.10.28掲載)

 
 
●米原謙『山川均―マルキシズム臭くないマルキストに―』(ミネルヴァ書房、2019)。
                                                   平地一郎
                                                                               
 私の最も尊敬する労農派マルクス主義者・山川均がこのように世間に知られていくのは嬉しい限りである。

  もとより、その「終章」での山川評にはあまり賛同できないが(「マルクス主義をめぐる山川の長い道のりは、マルクスから学び、その実現に向けた歩みだったが、それは最後にはマルクス主義の根本命題を否定する行きついたのではないだろうか」〈313頁〉)、しかし著者自身が西欧社会民主主義への(おそらく)親近感から山川均をそう肯定的に評価するわけだから、それはそれで構わないと思う。それだけ山川均は懐が広い。他者からの評価は細部についてはあまり気にしないことが肝要。

 山川均の伝記物には、山川菊江・向坂逸郎編『山川均自伝』(岩波書店、1961)がある。どういうわけか私の本棚にあるのは、たぶん学生時代に神田の古本屋で購入したものと思う。こちらの方が山川均の歩みと思想を知る上で私にはしっくりくるが、他方、本書も、興味あることを沢山教えてくれる。

  なかでも、第7章(東アジアの「山川主義」)。山川均の著作の中国語訳の何と多いことか。中国では、1911年の辛亥革命後、日本経由でマルクス主義思想を受容した経緯がある。そのなかでの山川均の影響力。譚王路*美『中国共産党を作った13人』(新潮新書、2010年)によれば、その多くが日本での留学を経験している社会主義者で、また雑誌『改造』に寄稿する者(李漢俊)もいた。歴史の歯車が少し違えば(13人の大半はその後離党・殺害などで中国共産党の源流にはならなかった)、中国は「労農派」的な社会主義建設をしていたかもしれないと勝手に想像してみたりする(ただし歴史にイフは禁物だが)。

 
  本書によって、多くの人が労農派の思想に少しでも触れる機会があれば、山川均の思想を広く「販売」したい私としては、言わば、労せずして丸儲けの感がある。
(2019.9.24掲載) 
*王路は一字